中国美術 Art of Chinese
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中国の有名美術家・書家をピックアップ

中国の長い歴史のなかでも、際立った活躍を見せた書家や画家についてまとめました。なかには土俵を選ばずに、様々なジャンルで大きな成果を上げてきた人物も少なくありません。中国美術の書画で語らないわけにはいかないその人物たちの、代表作や活躍は一見の価値ありです。

中国・唐の四大家の紹介

書聖と呼ばれる王羲之の書風を受け継いだ、初唐の三代家(欧陽詢、褚遂良、虞世南)、独自な書き方で、革新的な書風をひらいた顔真卿。四人を合わせて、唐の四大家と呼びます。栄華を極めた美しい唐文化を、政府の役人でありながら学士を重ねた、唐四大家についてまとめてみました。

欧陽詢(おうよう じゅん)

中国初唐の書家、学者、字は信本。臨湘の人。幼いころから醜い容姿と揶揄されていましたがその反面、聡明で、経書や史籍に通じ、隋に仕えて太常博士となりました。唐の時代では太祖に即位して、弘文館学士になり、給事中に抜擢されます。その後、命令により裴矩(はいく)と陳叔達(ちんしゅくたつ)とともに、芸門類聚百巻を編集して、天皇に承る大仕事をやってのけます。代表作の「九成宮醴泉銘」は、文字の整い方やバランスの良さが特徴です。

元は南朝陳の高官の家に生まれましたが、幼い頃に父が国に対して謀反をおこなってしまい処刑されてしまい、その時、欧陽詢も一緒に処刑されかけましたが何とか助かり、父の親友に育てられることになりました。このことがきっかけで、以前の生活とは違い、ここから貧しい生活を虐げられることになります。しかし持ち前の努力と文才により、唐の四大家と呼ばれるまでになりました。

褚遂良(ちょ すいりょう)

中国、初唐の書家、政治家、字は登善。銭塘の人。詩文、学問ともに優秀で父の友人でもあった、欧陽詢に重んじられました。唐の2代目皇帝次男、太宗の書道顧問として出仕、信頼を得て中書令となります。太子の廃太時には、高宗を猛烈にプッシュし、その功績なのか太宗から信頼が厚く、尚書右僕射まで出世。太宗の遺命をうけて高宗の補佐をしましたが、高宗が王皇垢を退くため、武氏を皇后にと任命する際に叩頭流血ほど強く反発しました。しかし、そのことが高宗の怒りに触れて左遷された愛州で刺史に殺され生涯を終えました。代表作は「孟法師碑」「雁塔聖教序」「伊闕仏龕碑」「房玄齢碑」などがあります。

虞世南(ぐ せいなん)

初唐の書家、詩人、政治家であり、字は伯施。余姚の人。陳の太子中庶子虞、荔の次男として生まれる。幼い頃より冷静沈着で向学心が強く、有識者との議論でも臆することはありませんでした。兄である世基や、顧野王から10年間におよび学び、南朝の陳、隋で仕えた後、唐に帰省。王羲之の書法を学んで才能が開花し、次々と昇進、最後には永興県公を任されました。太宗から厚い信頼を得て、全国より収集した天下古今の管理全般を一任。代表作の孔子廟堂碑は、高評価で後世の手本とされています。その他にも「汝南公主墓誌稿」「破邪論左脚帖」なども評価が高い。

顔真卿(がん しんけい)

中国、唐の官史、軍人、所人で字は清臣。琅邪、臨沂の人。父は顔惟貞。一家で学に優れており顔真卿も同じように、幼い頃から学ぶことが好きで、26歳で進士(国家の役人になるための試験)に合格しました。その後は、計4人のもの皇帝に仕えながら、吏部尚書、礼儀使などの高位まで昇進し、安禄山の反乱時には、平原太守としてただ一人義兵をあげ、唐朝のために気を吐いて大きく貢献。しかしそうした彼の性格を受けいれられないものも多く、反発するものもあらわれ、そこから上り詰めた地位を浮沈することになる。徳宗時には、盧杞が宰相となり、賊将の李希烈に帰順を促す使者としてシンケイを敢えていかせ、3年間も囚われの身となった顔真卿は屈服せず、最後は絞め殺され生涯を終えた。作品の特徴としては蚕頭燕尾(さんとうえんび)という独自の書き方で、王羲之と異なる、強烈な書風を示して革新的な書風をひらきました。代表作には安禄山の反乱時に多くの肉親を失ったことを表現した「祭伯文稿」や「争坐位帖」「多宝塔碑」「顔勤礼碑」「顔氏家廟碑」などがあります。

様々な時代で活躍した中国美術の書画家たち

中国美術を代表する書画家をメインにピックアップしました。書画だけではなく政治や歴史の方面でも活躍をした人が多く、他分野で高い評価を得ています。ここでは、中国を代表する作家たちの生い立ちや代表作とともに、その人物像もお伝えしていきます。

米芾(べいふつ)

中国は北宋末の文学者、書家、画家、収蔵家、鑑賞家、字は元章。襄陽の人。少々変わった人であったとされ、古書や名画を集めるだけではなく奇石怪石の類の収集を趣味とし、これらの趣味で手に入れたいものを見つけると、何としても手に入れるため、しばし奇行に走るような人物だったが、その反面、名石に出会えると手を合わせて拝むこともあったそうです。蔡襄や蘇軾、黄庭堅とともに宋の四大家と評価されていましたが、他の3人は政治家としても活動し、非常に優秀な人物でした。一方、米芾はというと書画分野のみの活躍に留まっていました。しかし3人の中で最も書画のレベルは高く、天才肌だったといえます。作品は、大路で豪快なのが特徴である。母が皇垢の乳母であったため、このように自由な生活を送れていたともいわれている。代表作には「蜀素帖」や「苕渓詩巻」などがあり、多くの古典を臨模して書をしたためました。

王一亭(おう いってい)

清末民初に上海を中心に活動した実業家、書画家、銀行家、政治家で、字が一亭。画家としても優れた業績を残す一方で、革命派の人物でもあり、また仏教徒としての活動も顕著な人物です。かなりの反骨精神を持ち合わせており、中学を二度退学させられるほどの気骨な人でもありました。書画は山水画や人物画、花鳥画、仏画と多岐にわたり才を発揮します。絹糸製造会社の社長を務めていた実績と人脈の多さから、滬南商務総会総理に選出されたことから、やはり政治家としての印象も強い。中華人民共和国成立時には、革命家として有名な黄興と協力し、拓殖学校を設立した。その後、第二革命では惜しくも破れてしまいイギリスに租界することになったり、第二次上海事変により上海に逃げるなど激しい人生を送るが、最後は上海に戻り、その地で死去した。代表作には「白龍山人詩稿」や「王一亭書画集」などがある。

張大千(ちょう たいせん)

中国・近代の書画家ですが、書だけではなく篆刻、詩の分野でも活躍をした人物です。重慶の求精中学に学び、曾煕や李瑞清などを通じ、若いころから中国画の技法を修め、10代のときに日本へと渡ります。その後、上海へと移住し以後、ブラジルやアメリカなど国外を渡り歩きながら個展を開いており、その実力を多くの人に認めら中国だけではなく国際的に評価されてきました。晩年は目を患ったために制作活動の幅が狭められることになりましたが、手術のために渡米するついでに日本へ立ち寄り、中国人作家や画家と鎌倉旅行をするなど、掴みどころのない人物かとも思われます。代表作には「渓橋行船図や「撥墨荷花図」「中郎授女図」「廬山図巻」などがある。

仇英(きゅう えい)

中国、明中期に院体画(北宋画)で活躍をした画家。字は実父。周臣の下で画を学んだ仇英は山水画、人物画、花鳥画に秀でており、沈周、文徴明、唐寅とともに明代四大家として称えられています。仇英は一生を売画で生活しており、売れるための画を描き続けていました。そんな生活を続けているうちに、多くの作画収蔵かとの交流を深め、更に技術力を高めてきました。代表作には「東林図」や「秋江待渡」などがあります。代表作には「東林図」や「柳塘漁艇」「春遊晚帰図」「漢宮春暁」などがある。

郭沫若(かく まつじゃく)

中華民国、中華人民共和国の政治家、文学者、詩人、歴史家で、字は鼎堂。楽山の人。学生時代は、日本に留学し、東京第一高等学校から九州帝国大学の医学部に進んだ。それと並行して朝鮮初の文芸雑誌である創造の創刊にも携わり、文学活動も始める。近代文学、歴史学の先駆者でありながらも北伐に参加し国民党員となり失敗も経験したが、中国共産党に加入するなど、政界でも名を馳せています。一時、日本へと亡命することもあったが中華人民共和国になって以降は国に戻り、国の役職を歴任した。代表作には詩集「女神」や戯曲「屈原」、他にも「中国古代社会研究」など、遺憾なくその才能を発揮しました。

王文治(おう ぶんじ)

丹従の人。翰林侍読学士になったのち、雲南臨安知府となった。音楽、詩、書などといった様々な文芸作品を生み出してきた人物です。中でも、能書家としての才能が溢れており、王文治が作成した「夢楼詩集」や「快雨堂題跋」は現代でも、世界中の人々を魅了し続けています。歴史の記録では、外交使節の補佐として琉球(沖縄)へ来日している経験者の一人です。

王鐸(おう たく)

孟津の人。進士として累官。礼部尚書になることが決定していたがその矢先、北京が陥落。南京政権となってしまい話は流れてしまい、東閣大学士になることで落ち着く。しかし翌年に清朝に降伏し礼部尚書となった。明朝と清朝の書画家として名を遺しています。米芾や王義之、王献之などから影響を受けていることから、大胆で自由な筆遣いを行っている作品が、現代でも多くの人々を魅了しているのです。行草体で一気に書き上げる独特な書風は、現代の書道にも取り入れられています。代表作には褚遂良の手紙を字体だけ変化させオマージュした作品の「臨褚遂良尺牘」や「詩巻」などがある。

呉昌碩(ご しょうせき)

安吉の人。清朝末期の画家、書家、篆刻家です。門弟には王一亭がいる。秀才となりましたが、何故か官途にはなりませんでした。呉昌碩の中ではあくまで書画篆刻になることが目標でしたが、一時、江蘇省安東の知事代行となり2つの仕事を兼業していました。しかしすぐに辞職して、書画篆刻一本でやっていこうと決意を固める。その後、中国各地を巡り、任伯年や呉雲などに出会い、教えを請いたいことから、さらに書画篆刻しての技術を高めていきました。詩・書・画・篆刻ともに優れた才覚を見せたことから「四絶」と称賛されました。文物の収集や保存、出版事業などを手掛ける「西泠印社」の初代社長としても活躍し、中国芸術の称揚に大きく貢献しました。

黄庭堅(こう ていけん)

洪州分寧の人。中国北宋時代の書家、詩人、文学者です。父が幼い頃に没してしまったため、母の伯父であり、蔵書家である李常のもとで書を学びました。詩・書・画に長けており、「詩書画三絶」と文彦博などからも讃えられました。進士として働いており、その後、大和県知事から校書郎、神宗実録検討、起居舎人とステップアップしていましたが、王安石の新法派と対立。しばしば地方に左遷されたものの、自然豊かな地方は、黄庭堅の芸術的才能を開花させるまたとない環境でもありました。最後は宣州で没しました。代表作には「黄州寒食詩巻跋」や「伏波神祠詩巻」「松風閣詩巻李白憶旧遊詩巻」などがある。

蘇軾(そ しょく)

眉州眉山の人。中国北宋代で詩人・書家、政治家として活躍した人物です。蘇東坡(そとうば)とも呼ばれています。また父の洵と弟の徹と3人合わせて三蘇と称されていた。弟と共に進士となった際に審査主管だった、欧陽州から自分以上の才能の持ち主で、審査した中でもずば抜けていると評された。しかしその時に、政府内では新法党と旧法党に意見が分かれており、政争が起こっていた。その渦中にいた蘇軾は、歯に衣着せぬ物言いをする人物だったため旧法党側だということにされてしまい、しばしば左遷され、最終的には徽宗が皇帝になった際に、ようやく帰還することになったが、帰還途中、常州で没された。生涯の多くを地方長官として過ごしました。詩文書画のあらゆる分野で天才的な業績を残した、宋代を代表する文豪のひとりです。代表作には「黄州寒食詩巻」や「赤壁賦巻」「李太白仙詩巻」「成都西楼帖」などがある。

李清照(り せいしょう)

宋代で最も偉大な女流詩人であるばかりでなく、中国文学史上最も偉大な女流詩人である評されています。18歳の年に学んでいた太学に知り合った年上の男性と結婚した。この2人は本や小器物が好きという共通の趣味があり、衣類を質に入れてはこれらを購入していた。数々の詞・詩・文を書き残していますが、自身の母が亡くなり葬儀へと帰郷していたところ靖康の変に巻き込まれてしまい、その多くは動乱の時代の中で失われてしまいました。命は何とか助かりましたが、数年後、臨安の宮廷に召されていた夫が急死してしまい、更に残っていた書物も金軍によって奪われ失った。数年後、再婚することになりますが、その夫とも虐待が原因で離別するなど数奇な人生を送った。

董其昌(とう きしょう)

中国明の時代末期の文人。字は玄宰。華亭の人。華亭にはもともと優秀な書家が多く、董其昌も幼少期に、書家として有名だった莫如忠(ばくにょちゅう)の書生となり、書や山水画などで有名になりました。書家の中でも米芾を好んでおり、作画でも影響を受けている。日本でも書家たちに影響をおよぼし、書家たちから参考にされた人物でもある。主な作品には戯鴻堂帖(ぎこうどうじょう)・行書崑山道中書(ぎょうしょこんざんどうちゅうしょ)などがあります。

参考文献

二玄社/中国書人名鑑

中公出版/中国書人伝

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