中国美術 Art of Chinese
中国美術を学びたい人のための入門

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近代

中国近代の絵画と書画について説明しています。

皇帝制度の終わりと中華民国の成立

17世紀から20世紀初頭まで、女真(満州人)が中国を支配した清王朝は17世紀後半の康煕帝、18世紀の雍正帝・乾隆帝の時代に最盛期を迎えます。

しかし、19世紀前半から欧米列強の介入が顕著となり、1840年のアヘン戦争後は半植民地化されてしまいました。さらに1851年には、近代中国最大の農民反乱「太平天国の乱」が起こります。

これは「滅満興漢(満州人の清朝を滅ぼし、漢民族の国家を復興させようという意味のスローガン)」を掲げる反清朝運動であると同時に、平等社会の実現を望む農民・貧民の心を捉えるものとなりました。この乱は国力を衰退させ、さらに19世紀後半からは日本の侵略を受けた清朝は、たびたびの改革にも失敗。1911年の「辛亥革命」で、始皇帝から続いた皇帝制度は終わりを告げました。

戦い続きの中華民国

革命派が起こした辛亥革命後、1912年には孫文が臨時大総統に就任し、「中華民国」が成立します。年号は「中華民国元年」と改められますが、この年号は、現在でも中華民国(台湾)で使用されています。革命後は孫文と、清朝の実権者から革命側に転じた袁世凱が対立しますが、後者が権力をにぎることになりました。

1937年には、盧溝橋事件から日中戦争が勃発。日本軍は中華民国の首都、南京を陥落させますが、国民政府は日本軍の追撃から各地を防衛。戦争は長期化します。「国民軍」はアメリカやイギリスの支援を受けて抵抗を続け、蒋介石の統率下に入った「共産党軍」も日本軍と戦いながら拠点を拡大していきます。

やがて日本は1941年に太平洋戦争に突入。中国は連合国として参戦、日本との戦争に勝利します。

「学校派」と呼ばれる画家の活躍

中華民国の成立後、上海や北京などに美術学校が設立され、「学校派」といわれる西洋画や日本画を学んだ画家たちが活躍します。

若い頃、日本に留学、辛亥革命や抗日運動に参加し、「革命画家」ともいわれる「高剣父」は「私立南中美術院」を設立し、多くの後継者を育てました。嶺南派の祖と呼ばれる「劉海粟」も日本と欧州に留学経験があり、「上海美術専科学校」を設立。中国ではそれまで一般的でなかった人体モデルを使うなど、デッサンの技術改革に努めます。

「徐悲鴻」はフランスに留学し、パリのエコール・デ・ボザールに学んだ画家。帰国後は南京の国立中央大学芸術系主任を、中華人民共和国成立後は中央美術院院長を務めしました。また「東洋のピカソ」と呼ばれる「張大千」、「斉璜(白石)」なども中国近代の画壇をささえた画家です。

また、清朝末期から近代にかけて、あらゆる才能を開花させた「呉昌碩」も忘れてはなりません。呉昌碩は清代最後の文人であり、詩・書・画・篆刻とも桁外れな才能を持っていた呉昌碩は、近代の中国で「四絶(四種の芸術で並外れた技量や能力を持っている)」と称賛されました。つまり、優れた芸術家として最たる評価を受けているのです。

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