やさしく解説!みんなの中国美術入門
sponsored by 本郷美術骨董館
中国美術 Art of Chinese 中国美術 Art of Chinese
中国美術を学びたい人のための入門

これから中国美術について知っていきたい人から、趣味にしたい人まで。中国美術を学びたい人のためのサイトです。
時代、ジャンル、中国美術を極めたい人向けの記事を豊富に用意しております。あなたが中国美術に触れる際の、お役に立てる入門書となりますように。

みんなの中国美術入門 » 中国の有名美術家・書家をピックアップ

中国の有名美術家・書家をピックアップ

このサイトは本郷美術骨董館をスポンサーとして、Zenken株式会社が運営しています。

中国の長い歴史のなかでも、際立った活躍を見せた書家や画家についてまとめました。なかには土俵を選ばずに、様々なジャンルで大きな成果を上げてきた人物も少なくありません。中国美術の書画で語らないわけにはいかないその人物たちの、代表作や活躍は一見の価値ありです。

中国・唐の四大家の紹介

書聖と呼ばれる王羲之の書風を受け継いだ、初唐の三代家(欧陽詢、褚遂良、虞世南)、独自な書き方で、革新的な書風をひらいた顔真卿。四人を合わせて、唐の四大家と呼びます。栄華を極めた美しい唐文化を、政府の役人でありながら学士を重ねた、唐四大家についてまとめてみました。

欧陽詢(おうよう じゅん)

中国初唐の書家、学者、字は信本。臨湘の人。幼いころから醜い容姿と揶揄されていましたがその反面、聡明で、経書や史籍に通じ、隋に仕えて太常博士となりました。唐の時代では太祖に即位して、弘文館学士になり、給事中に抜擢されます。その後、命令により裴矩(はいく)と陳叔達(ちんしゅくたつ)とともに、芸門類聚百巻を編集して、天皇に承る大仕事をやってのけます。代表作の「九成宮醴泉銘」は、文字の整い方やバランスの良さが特徴です。

元は南朝陳の高官の家に生まれましたが、幼い頃に父が国に対して謀反をおこなってしまい処刑されてしまい、その時、欧陽詢も一緒に処刑されかけましたが何とか助かり、父の親友に育てられることになりました。このことがきっかけで、以前の生活とは違い、ここから貧しい生活を虐げられることになります。しかし持ち前の努力と文才により、唐の四大家と呼ばれるまでになりました。

欧陽詢(おうよう じゅん)について詳しくはこちら>>

褚遂良(ちょ すいりょう)

中国、初唐の書家、政治家、字は登善。銭塘の人。詩文、学問ともに優秀で父の友人でもあった、欧陽詢に重んじられました。唐の2代目皇帝次男、太宗の書道顧問として出仕、信頼を得て中書令となります。太子の廃太時には、高宗を猛烈にプッシュし、その功績なのか太宗から信頼が厚く、尚書右僕射まで出世。太宗の遺命をうけて高宗の補佐をしましたが、高宗が王皇垢を退くため、武氏を皇后にと任命する際に叩頭流血するほど強く反発しました。しかし、そのことが高宗の怒りに触れて左遷された愛州で刺史に殺され生涯を終えました。代表作は「孟法師碑」「雁塔聖教序」「伊闕仏龕碑」「房玄齢碑」などがあります。

褚遂良(ちょ すいりょう)について詳しくはこちら>>

虞世南(ぐ せいなん)

初唐の書家、詩人、政治家であり、字は伯施。余姚の人。陳の太子中庶子虞、荔の次男として生まれる。幼い頃より冷静沈着で向学心が強く、有識者との議論でも臆することはありませんでした。兄である世基や、顧野王から10年間におよび学び、南朝の陳、隋で仕えた後、唐に帰省。王羲之の書法を学んで才能が開花し、次々と昇進、最後には永興県公を任されました。太宗から厚い信頼を得て、全国より収集した天下古今の管理全般を一任。代表作の孔子廟堂碑は、高評価で後世の手本とされています。その他「汝南公主墓誌稿」「破邪論左脚帖」なども評価されています。

虞世南(ぐ せいなん)について詳しくはこちら>>

顔真卿(がん しんけい)

中国、唐の官史、軍人、所人で字は清臣。琅邪、臨沂の人。父は顔惟貞。一家で学に優れており顔真卿も同じように、幼い頃から学ぶことが好きで、26歳で進士(国家の役人になるための試験)に合格しました。その後は、計4人のもの皇帝に仕えながら、吏部尚書、礼儀使などの高位まで昇進し、安禄山の反乱時には、平原太守としてただ一人義兵をあげ、唐朝のために気を吐いて大きく貢献。しかしそうした彼の性格を受けいれられないものも多く、反発するものもあらわれ、そこから上り詰めた地位を浮沈することになる。徳宗時には、盧杞が宰相となり、賊将の李希烈に帰順を促す使者として真卿を敢えていかせ、3年間も囚われの身となった顔真卿は屈服せず、最後は絞め殺され生涯を終えた。作品の特徴としては蚕頭燕尾(さんとうえんび)という独自の書き方で、王羲之と異なる、強烈な書風を示して革新的な書風をひらきました。代表作には安禄山の反乱時に多くの肉親を失ったことを表現した「祭伯文稿」や「争坐位帖」「多宝塔碑」「顔勤礼碑」「顔氏家廟碑」などがあります。

顔真卿(がん しんけい)について詳しくはこちら>>

様々な時代で活躍した中国美術の書画家たち

中国美術を代表する書画家をメインにピックアップしました。書画だけではなく政治や歴史の方面でも活躍をした人が多く、他分野で高い評価を得ています。ここでは、中国を代表する作家たちの生い立ちや代表作とともに、その人物像もお伝えしていきます。

米芾(べいふつ)

中国は北宋末の文学者、書家、画家、収蔵家、鑑賞家、字は元章。襄陽の人。少々変わった人であったとされ、古書や名画を集めるだけではなく奇石怪石の類の収集を趣味とし、これらの趣味で手に入れたいものを見つけると、何としても手に入れるため、しばし奇行に走るような人物だったが、その反面、名石に出会えると手を合わせて拝むこともあったそうです。蔡襄や蘇軾、黄庭堅とともに宋の四大家と評価されていましたが、他の3人は政治家としても活動し、非常に優秀な人物でした。一方、米芾はというと書画分野のみの活躍に留まっていました。しかし3人の中で最も書画のレベルは高く、天才肌だったといえます。作品は、大路で豪快なのが特徴である。母が皇垢の乳母であったため、このように自由な生活を送れていたともいわれています。代表作には「蜀素帖」や「苕渓詩巻」などがあり、多くの古典を臨模して書をしたためました。

米芾(べいふつ)について詳しくはこちら>>

王一亭(おう いってい)

清末民初に上海を中心に活動した実業家、書画家、銀行家、政治家で、字が一亭。画家としても優れた業績を残す一方で、革命派の人物でもあり、また仏教徒としての活動も顕著な人物です。かなりの反骨精神を持ち合わせており、中学を二度退学させられるほどの気骨な人でもありました。書画は山水画や人物画、花鳥画、仏画と多岐にわたり才を発揮します。絹糸製造会社の社長を務めていた実績と人脈の多さから、滬南商務総会総理に選出されたことから、政治家としての印象も強めています。中華人民共和国成立時には、革命家として有名な黄興と協力し、拓殖学校を設立。その後、第二革命では惜しくも破れてしまいイギリスに租界することになったり、第二次上海事変により上海に逃げるなど激しい人生を送りますが、最後は上海に戻り、その地で死去。代表作には「白龍山人詩稿」や「王一亭書画集」などがあります。

王一亭(おう いってい)について詳しくはこちら>>

張大千(ちょう たいせん)

中国・近代の書画家ですが、書だけではなく篆刻、詩の分野でも活躍をした人物です。重慶の求精中学に学び、曾煕や李瑞清などを通じ、若いころから中国画の技法を修め、10代のときに日本へと渡ります。その後、上海へと移住し以後、ブラジルやアメリカなど国外を渡り歩きながら個展を開いており、その実力を多くの人に認めら中国だけではなく国際的に評価されてきました。晩年は目を患ったために制作活動の幅が狭められることになりましたが、手術のために渡米するついでに日本へ立ち寄り、中国人作家や画家と鎌倉旅行をするなど、掴みどころのない人物かとも思われます。代表作には「渓橋行船図や「撥墨荷花図」「中郎授女図」「廬山図巻」などがあります。

張大千(ちょうたいせん・ちょうだいせん)について詳しくはこちら>>

仇英(きゅう えい)

中国、明中期に院体画(北宋画)で活躍をした画家。字は実父。周臣の下で画を学んだ仇英は山水画、人物画、花鳥画に秀でており、沈周、文徴明、唐寅とともに明代四大家として称えられています。仇英は一生を売画で生活しており、売れるための画を描き続けていました。そんな生活を続けているうちに、多くの作画収蔵かとの交流を深め、更に技術力を高めてきました。代表作には「東林図」や「秋江待渡」などがあります。代表作には「東林図」や「柳塘漁艇」「春遊晚帰図」「漢宮春暁」などがあります。

仇英(きゅう えい)について詳しくはこちら>>

郭沫若(かく まつじゃく)

中華民国、中華人民共和国の政治家、文学者、詩人、歴史家で、字は鼎堂。楽山の人。学生時代は、日本に留学し、東京第一高等学校から九州帝国大学の医学部に進学。それと並行して朝鮮初の文芸雑誌である創造の創刊にも携わり、文学活動も始めます。近代文学、歴史学でありながらも北伐に参加し国民党員となり失敗も経験したが、中国共産党に加入するなど、政界でも名を馳せています。一時、日本へと亡命することもあったが中華人民共和国になって以降は国に戻り、国の役職を歴任。代表作には詩集「女神」や戯曲「屈原」、他にも「中国古代社会研究」など、遺憾なくその才能を発揮しました。

郭沫若(かく まつじゃく)について詳しくはこちら>>

王文治(おう ぶんち)

丹従の人。翰林侍読学士になったのち、雲南臨安知府となりました。音楽、詩、書などといった様々な文芸作品を生み出してきた人物です。中でも、能書家としての才能が溢れており、王文治が作成した「夢楼詩集」や「快雨堂題跋」は現代でも、世界中の人々を魅了し続けています。歴史の記録では、外交使節の補佐として琉球(沖縄)へ来日している経験者の一人です。

王文治(おう ぶんち)について詳しくはこちら>>

王鐸(おう たく)

孟津の人。進士として累官。礼部尚書になることが決定していたがその矢先、北京が陥落。南京政権となってしまい話は流れてしまい、東閣大学士になることで落ち着きますが、翌年に清朝に降伏し、礼部尚書となります。明朝と清朝の書画家として名を遺しています。米芾や王義之、王献之などから影響を受けていることから、大胆で自由な筆遣いを行っている作品が、現代でも多くの人々を魅了しているのです。行草体で一気に書き上げる独特な書風は、現代の書道にも取り入れられています。代表作には褚遂良の手紙を字体だけ変化させオマージュした作品の「臨褚遂良尺牘」や「詩巻」などがあります。

王鐸(おう たく)について詳しくはこちら>>

呉昌碩(ご しょうせき)

安吉の人。清朝末期の画家、書家、篆刻家です。門弟には王一亭がいる。秀才となりましたが、何故か官途にはなりませんでした。呉昌碩の中ではあくまで書画篆刻になることが目標でしたが、一時、江蘇省安東の知事代行となり2つの仕事を兼業していました。しかしすぐに辞職して、書画篆刻一本でやっていこうと決意を固めます。その後、中国各地を巡り、任伯年や呉雲などに出会い、教えを請いたいことから、さらに書画篆刻しての技術を高めていきました。詩・書・画・篆刻ともに優れた才覚を見せたことから「四絶」と称賛されました。文物の収集や保存、出版事業などを手掛ける「西泠印社」の初代社長としても活躍し、中国芸術の称揚に大きく貢献しました。

呉昌碩(ご しょうせき)について詳しくはこちら>>

黄庭堅(こう ていけん)

洪州分寧の人。中国北宋時代の書家、詩人、文学者です。父が幼い頃に没してしまったため、母の伯父であり、蔵書家である李常のもとで書を学びました。詩・書・画に長けており、「詩書画三絶」と文彦博などからも讃えられました。進士として働いており、その後、大和県知事から校書郎、神宗実録検討、起居舎人とステップアップしていましたが、王安石の新法派と対立。しばしば地方に左遷されたものの、自然豊かな地方は、黄庭堅の芸術的才能を開花させるまたとない環境でもありました。最後は宣州で没しました。代表作には「黄州寒食詩巻跋」や「伏波神祠詩巻」「松風閣詩巻李白憶旧遊詩巻」などがあります。

黄庭堅(こう ていけん)について詳しくはこちら>>

蘇軾(そ しょく)

眉州眉山の人。中国北宋代で詩人・書家、政治家として活躍した人物です。蘇東坡(そとうば)とも呼ばれています。また父の洵と弟の徹と3人合わせて三蘇と称されていました。弟と共に進士となった際に審査主管だった、欧陽州から自分以上の才能の持ち主で、審査した中でもずば抜けていると評されましたが、しかしその時に、政府内では新法党と旧法党に意見が分かれており、政争が起こっていました。その渦中にいた蘇軾は、歯に衣着せぬ物言いをする人物だったため旧法党側だということにされてしまい、しばしば左遷され、最終的には徽宗が皇帝になった際に、ようやく帰還することになったが、帰還途中、常州で没された。生涯の多くを地方長官として過ごしました。詩文書画の様々な分野で天才的な業績を残した、宋代を代表する文豪のひとりです。代表作には「黄州寒食詩巻」や「赤壁賦巻」「李太白仙詩巻」「成都西楼帖」などがあります。

蘇軾(そ しょく)について詳しくはこちら>>

李清照(り せいしょう)

宋代の中でも偉大な女流詩人であるばかりでなく、中国文学の中でも偉大な女流詩人であると評されています。18歳の年に学んでいた太学に知り合った年上の男性と結婚。この2人は本や小器物が好きという共通の趣味があり、衣類を質に入れてはこれらを購入していました。数々の詞・詩・文を書き残していますが、自身の母が亡くなり葬儀へと帰郷していたところ靖康の変に巻き込まれてしまい、その多くは動乱の時代の中で失われてしまいました。命は何とか助かりましたが、数年後、臨安の宮廷に召されていた夫が急死してしまい、更に残っていた書物も金軍によって奪われ失います。数年後、再婚することになりますが、その夫とも虐待が原因で離別するなど数奇な人生を送りました。

李清照(り せいしょう)について詳しくはこちら>>

董其昌(とう きしょう)

中国明の時代末期の文人。字は玄宰。華亭の人。華亭にはもともと優秀な書家が多く、董其昌も幼少期に、書家として有名だった莫如忠(ばくにょちゅう)の書生となり、書や山水画などで有名になりました。書家の中でも米芾を好んでおり、作画でも影響を受けています。日本でも書家たちに影響をおよぼし、書家たちから参考にされた人物でもある。主な作品には戯鴻堂帖(ぎこうどうじょう)・行書崑山道中書(ぎょうしょこんざんどうちゅうしょ)などがあります。

董其昌(とう きしょう)について詳しくはこちら>>

于右任(う ゆうじん)

清朝時代末期、孫文らと共に革命戦士として戦い、辛亥革命をもたらした立役者の一人、于右任(う ゆうじん)。彼の主戦場は“政治”の世界でしたが、その一方で歴代の草書をまとめて標準草書を創始するなど、文化人としても大いに名を馳せました。きめこまかい玉版箋を用いて書かれた『行楷諸葛武侯伝節句』や、見事な筆跡を残す『行書五言聯』など、後世に伝わる作品も多数。ある時は清朝の指名手配を受け、ある時は上海に隠れ住み、またある時は中華民国の建国と繁栄に貢献した于右任。波乱万丈人生の中で、書家としての彼のエッセンスはどのように育まれ成長を遂げていったのか?またなぜ革命戦士の彼が書画に没頭したのか?代表作の紹介も含めて詳しく解説しています。

于右任(う ゆうじん)について詳しくはこちら>>

孫文(そんぶん)

中華民国建国の父として知られる孫文。革命家、政治指導者としてのイメージが強い彼ですが、実は書家としての作品も残しています。特になじみ深い日本には一再ならず訪問し、親しい政治家や実業家に書を贈ったことはとても有名です。例えば熊本県荒尾市には直筆の書「博愛」を寄贈していますが、このことはニュースにもなっています。もちろん『三民主義』や『国父全集』など著作も残っていますし、彼が一介の政治指導者や革命家にあらず、知的な文人でもあったことは明らかです。そんな孫文はどのようにして大業を成し遂げたのか、またどのような背景で書を学び作品を著すことになったのか、詳しい経緯と孫文の華麗なる生涯についてまとめてみました。

孫文(そんぶん)について詳しくはこちら>>

包世臣(ほうせいしん)

清朝時代の書家・評論家として有名な包世臣。その人生を一言で評すれば、出会いに恵まれていたということです。まず26歳のときには、自らも受験した科挙試験会場で張翰風(張琦)に出会いますが、彼は包世臣の生涯の友になりました。次いで、28歳のときには鄧石如と出会い、書家としてのその才能の豊かさに感服し、多くの影響を受けると共に、生涯の範としています。さらに41歳のときには黄乙生に出会い、やはりその才能の高さを認め書に影響を受けています。こうして数々の出会いを通じて見聞を広め、書家としての能力とセンスを磨き続けたのが、包世臣の生涯でした。代表作には、『草書五言横披』『臨王羲之思想帖軸』『行書文語横披』『臨孝女曹娥碑冊』などがあります。

包世臣(ほうせいしん)について詳しくはこちら>>

啓功(けいこう)

北京市出身の啓功は、清朝雍正帝の九代目子孫として生まれながら、独学で絵画を学びやがては中国書法家協会の重鎮にまでなった、立志伝中の人物です。幼くして父を亡くすなど苦労の多い幼・少年時代を過ごしましたが、一方で豊かな才能にも恵まれ、書画・画家としてはもちろん、詩文、教育者、古典文献学家、文物鑑定家、紅学家など多方面で活躍しています。肩書に事欠くことはなく、輔仁大学国文系副教授兼北京大学博物館系副教授、北京師範大学副教授、教授、中央文史研究館館長、中国人民政治協商会議全国委員会常務委員、国家文物鑒定委員会主任委員、国家文物鑒定委員会主任委員など、数々の要職を歴任しています。1960年代後半から始まった文化大革命において「大字報」の制作を任され、多忙な日々を送る中、独自の書風を確立させました。

啓功(けいこう)について詳しくはこちら>>

呉冠中(ごかんちゅう)

呉冠中は、現代中国絵画を代表する画家の一人です。杭州芸専附属中学で李超士・方幹民に油画を学んだのを皮切りに、国立杭州美術学校、渡仏、パリ国立高等芸術学校でそれぞれ絵画の知識と技能を学びながら、後に独自のスタイルとして確立させることになる、西洋と中国の手法の融合を追及し続けます。帰国後は裸婦画を政府に非難された挙句、下放されるなど窮境を経験しますが、1970年代初めに復帰を許された後は、1978年に中央工芸美術学院で、1992年には大英博物館にて現代中国人芸術家として最初の個人展を開催、さらには2002年にアジア人芸術家として初めてフランス学院アカデミー会員になるなど、順風満帆な画家人生を送っています。そして『水郷の町並み』など多くの作品を通して、西洋の油絵と中国の水墨画の手法を融合させる独自のスタイルを確立させ、広く世に知らしめました。享年91歳。

呉冠中(ごかんちゅう)について詳しくはこちら>>

沈周(しん しゅう)

沈周(しん しゅう)は、明代中期に活躍した画家です。中国の長洲県相城里(現在の江蘇省蘇州)の名家で生まれ、充実した環境の中で絵の技術を学びました。水墨画の技術や表現方法を、父や叔父から教授。南宋時代の技法に自身の表現力を組み合わせて、独自の技法を編み出しました。実家に収蔵されている古画を参考に勉強することで技術を磨いたこともあったそうです。画家と書画の依頼を同時に受けていたため作品数は少ないものの、優れた作品は現代でも重宝されています。

沈周(しん しゅう)について詳しくはこちら>>

呉彬(ごひん)

生没年不詳で現在の福建省出身とも伝えられる呉彬。14代皇帝・万歴帝の時代(1573~1620年)に官吏として王朝に仕え、そのかたわらで仏教画を中心に数々の作品を残したことで知られています。

その作風は極めて独特。人物でも自然でも、インスピレーションを大切にしたオリジナリティの高い作風が呉彬絵画の特徴と考えられています。

なお、インスピレーションを大切にするあまり、時に「中国美術の伝統を軽視している」と評されたこともある呉彬ですが、実際には多くの中国伝統美術を参考にして作品を生み出していたとも伝えられています。その作品群を表面的に鑑賞するのではなく、中国美術の伝統という視点から鑑賞すれば、また新たな呉彬の魅力を発見できるかもしれません。

呉彬(ごひん)について詳しくはこちら>>

愛新覚羅溥傑(あいしんかくら ふけつ)

1907年生まれ、兄は中国・清朝最後の皇帝である溥儀(ふぎ)。昭和4年に来日して学習院高等科に入学し、その後陸軍士官学校にて学んでいます。昭和12年には昭和天皇の遠縁にあたる嵯峨浩と結婚し、ふたりの子どもをもうけました。その人柄は心優しい性格であり、家族思いの人物だったといわれています。

芸術家が多いことでも知られている愛新覚羅一族の中でも、書家として特に知られている人物。流水を思わせるような独特の書体を特徴としています。

愛新覚羅溥傑(あいしんかくら ふけつ)について詳しくはこちら>>

亞明(あみん)

亞明は1924年生まれで本名は葉家炳といい、優れた山水画を描く画家として知られています。10歳から絵画を学び始め、その後1941年に淮安芸術専門学校に入学することによって本格的に中国伝統の絵画技法を学びました。

学校を卒業した後は、美術誌の副編集長として活躍するとともに画家として本格的な活動も開始。精力的に作品作りに取り組み北京で展覧会を開催するとともに後進の画家の指導にも力を入れ、現代中国を代表する画家としてその名が知られています。

亞明(あみん)について詳しくはこちら>>

袁暁岑(えんぎょうしん)

現代の中国絵画において「花鳥画の第一人者」として知られている袁暁岑(えんぎょうしん)は、1915年生まれ、中国貴州省出身の画家です。雲南大学を卒業した後は雲南省画院名誉院長など中国美術におけるさまざまな役割を果たしてきました。

袁暁岑は特に鳥をモチーフにした作品でその名を知られている画家であり、孔雀や鴿(ドバト)を魅力的に描いた作品が残されています。ありふれた鳥を魅力的に描くことにより、独自の感性を持つ画家として評価され、2008年に亡くなった後も多くの人から愛されています。

袁暁岑(えんぎょうしん)について詳しくはこちら>>

王西京(おうせいきょう)

伝統的な中国の人物画と西洋画特有の写実的な技法を組み合わせることによって、独自の画風を確立した王西京(おうせいきょう)は、中国画壇における代表的な画家の一人として知られています。

中国国内で活躍するとともに、日本やシンガポール、フランス、タイなどでも数々の個展を開催するなど国際的な活動にも精力的に取り組んでおり、世界的に高い評価を受けています。日本政府から教育文化勲章を授与されるなど、数多くの功績を残している点も特筆すべき点といえるでしょう。

王西京(おうせいきょう)について詳しくはこちら>>

何海霞(かかいか)

1908年に北京で生まれた何海霞(かかいか)は、山水画や花卉を得意としていた画家です。何海霞は幼少から絵画を得意としており、その後「書画の巨人」と呼ばれていた張大千のもとで教えを受け、絵画の才能を伸ばしました。その大胆かつ繊細な筆運びは師を驚かせるものであったといわれています。

その後何海霞は大らかな画風を旨として知られていた「長安派」の創始者のひとりとして活躍。晩年まで絵画の制作に取り組んでいます。

何海霞(かかいか)について詳しくはこちら>>

王雪涛(おうせっとう)

王雪涛は近現代の中国を代表する画家のひとりです。花鳥画や鳥獣画を得意としていた点が特徴であり、色鮮やかな牡丹を描いていたことから「牡丹王」という名でも知られています。西洋画と中国画の技法両方を活かした絵画を描く点が特徴のひとつです。

前北京国立芸術学院卒業後、王雪涛は同院の講師や教授を務めています。さらに中国美術の素晴らしさを伝える活動にも携わっており、ヨーロッパを訪れた際にはパブロ・ピカソとも交流を持っています。

王雪涛(おうせっとう)について詳しくはこちら>>

関山月(かんさんげつ)

1912年に中国広東省に生まれた関山月は、現代中国を代表する画家です。広州市師範学校を卒業し、嶺南画派の創始者である高剣父に師事して伝統的な中国画について学びました。

その後、広州市立芸術専門学校で働きながら画家として創作活動を続け、国内をめぐって写生を行いました。特に1941年からは西北・西南部にて多数の写生を行い、その後の作品に生かしています。代表的な作品として「緑色長城」や「北国牧歌」などがあります。

関山月(かんさんげつ)について詳しくはこちら>>

黄永玉(こうえいぎょく)

1924年に湖南省で生まれた黄永玉(こうえいぎょく)は、水墨画や油絵、版画などさまざまなジャンルの絵画を手がけてきたとともに、随筆や詩などの制作も行ってきた、現代中国を代表数する芸術家のひとりとなっています。

黄永玉の特徴として、誰の弟子にもならずに独学にて自分自身の画風を生み出した、という点が挙げられます。1940年代になると個展を開催するほどの人気に。また、北京でオリンピックが開催されることを記念した作品でも知られています。

黄永玉(こうえいぎょく)について詳しくはこちら>>

高奇峰(こうきほう)

1889年に広東省広州市番禺区で生まれた画家・高奇峰(こうきほう)は「嶺南三傑」のひとりとして数えられる人物です。高奇峰は画家だった兄の高剣父から絵を学んだことで画家への道を歩み始め、16歳の時には東京にて西洋画や日本画特有の写生法や色使いについて学びました。その後中国に戻り、後進の育成や指導に注力しています。

さらに、兄や画家の陳樹人とともに「嶺南画派」を結成し、中国の画壇に大きな影響を与えたことで知られています。

高奇峰(こうきほう)について詳しくはこちら>>

顔輝(がんき)

13世紀後半に活躍した画家であり、優れた「道釈人物画」を描いていたことで知られています。遅くとも室町時代の中期には日本にも顔輝の作品が伝わっており、多くの絵師が模写を試みているように、明兆をはじめとする日本の画家にも大きな影響を与えたとされる画家です。

代表作は「蝦蟇・鉄拐図(がまてっかいず)」や「寒山拾得図(かんざんじっとくず)」など。「蝦蟇・鉄拐図」は京都知恩寺に伝存している作品です。生没年未詳。

顔輝(がんき)について詳しくはこちら>>

唐寅(とういん)

1470年に蘇州府呉県で生まれた唐寅(とういん)は、中国明代に活躍した書画家です。幼い頃から利発だったことで教育を受け、郷試では主席となったものの、その後の科挙試験において不正を疑われたことから士官の道を断念したという経緯があります。

唐寅は少年時代に周臣に画を学んでおり、その後はさまざまな大家の画を幅広く研究・吸収することによって唐寅独自の画風を形成。山水画や女図美人画に才能を発揮したといわれています。

唐寅(とういん)について詳しくはこちら>>

于非闇(うひあん)

1889年北京で生まれた于非闇は、繊細な花鳥画を描いた人物です。幼い頃から家伝の書画を学び、23歳の頃に師範学校に入学。学校を卒業した後は私立師範学校などで教師として教壇に立ったという経歴を持っています。その後、40代半ばあたりから写実的な花鳥図画の制作に取り組み、さまざまな作品を描きました。また、後進の育成にも取り組んだ人物でもあります。

このように花鳥画家として人気の高い于非闇ですが、書道家の一面を持っていたことでも知られています。

于非闇(うひあん)について詳しくはこちら>>

徐希(じょき)

徐希(じょき)は、伝統的な中国画の様式に西洋画のエッセンスを加えた作品を多く発表し、国際的にも高い評価を得ていることでも知られる画家です。国際的な絵画展でもさまざまな賞を受賞しており、中国において優れた文化人や芸術家に与えられる「国家一級美術史」の称号を得た人物でもあります。

代表作には「江南喜雨図」や「湖上晨曲」などがあり、日本など世界各国で個展を開いた経験も。その人気から、個展を開くたびに大きな話題を呼びました。

徐希(じょき)について詳しくはこちら>>

郎世寧(ろう せいねい)

イタリア・ミラノ生まれで本名はジュゼッペ・カスティリオーネ。郎世寧(ろう せいねい)は中国名になります。若き日は熱心なキリスト教徒であり、ボローニャ派に学んだ画家でもありました。1715年、27歳の時にイエズス会の宣教師として中国へ渡り、清朝の宮廷画家として活躍したという、異色の経歴の持ち主になります。東洋画法に西洋風の陰影法と写実主義を融合させた手法は、同時期の画院絵画に大きな影響を与えたとされています。1766年、北京にて死去した際には、侍郎の官位を贈られました。

郎世寧(ろう せいねい)について詳しくはこちら>>

林良(りんりょう)

明代中期の1450から1487年ごろに活動したと伝えられる水墨画家。生没年は不明ですが、広東省南海郡(現在の広州市)出身との伝があります。

活動前期は宮廷画家として着色花鳥画を数多く制作、活動後期は画院にて水墨花鳥画を中心に制作。同じく明代の呂紀と並び、「花鳥画の2大大家」と評されることもあります。

代表作は「山茶白羽図」「鳳凰石竹図」「秋鷹図」など。なお、2008年に中国で行われたオークションでは、林良の代表作の1つ「松鶴延年」が690万元(約1億円)で落札されています。

林良(りんりょう)について詳しくはこちら>>

林風眠 (りんふうみん)

1900年に中国の広東省で生まれた林風眠 (りんふうみん)は、石工の祖父と画家の父のもと、幼少期から絵画などを学んでいました。18歳でフランスに渡りパリ国立高等美術学校で油画を学習。その作風には西洋的な表現を大きく取り入れており、伝統的な中国絵画とは異なっています。

代表作としては「秋林」や「東方美人」が挙げられ、特徴的な色彩表現が用いられていなす。中国に帰国した後は北京国立芸術専門学校の学校長に就任し、91歳でその生涯を終えました。

林風眠 (りんふうみん)について詳しくはこちら>>

何家英 (かかえい)

何家英 (かかえい)は天津生まれ、河北省人丘育ちの画家。1980年に天津美術学院を卒業し、全国政治協商会議委員、中国美術家協会副主席、天津画院院長、天津美術学院教授などを歴任。西洋絵画と中国絵画を融合した唯一無二の世界観で国内外に人気があります。

緻密で写実的な女性画、裸婦画が多く、代表作としては「酸葡萄」「秋冥」「桑露」「山」などが挙げられます。中国国内はもちろん、韓国、日本、インド、フランスやブラジルでも個展を開催。2012年にはパリのルーブル美術館に出展し金賞を受賞しています。

何家英 (かかえい)について詳しくはこちら>>

中国の有名美術家の海外での評価について

長い歴史を持つ中国も最近では民主化傾向にあり、文化や生活スタイルも様変わりしてきました。こうした時代の流れに伴って中国美術も伝統的なものだけでなく、新しいカルチャーを採り入れ、さまざまな変化を見せています。また、中国国内だけに止まらず、拠点を海外に移し、世界各地で活躍する中国人の美術家も増えてきました。
艾未未 (アイ・ウェイウェイ)もその一人で、現代美術家・キュレーター・建築家・文化評論家・社会評論家と幅広い肩書きを持ち、中国の現代美術がまだ始まったばかりの1980年代から美術家として世界各地で活動しています。2014年にはギャラリー、美術館、アートフェア及びオークションなどを取り上げる海外サイト「ARTSY」で第5位にランキングされ、中国の美術及び美術評論を先導しています。

ニューヨーク在住の蔡國強 (ツァイ・グオチャン) も世界的評価を得ているアーチストで、ヴェネツィア・ビエンナーレ(1999年)国際金獅子賞をはじめ輝かしい受賞歴を持っています。

参照元:横浜美術館公式HP:https://yokohama.art.museum/special/2015/caiguoqiang/summary.html

北京・ベルリンを拠点としている何翔宇 (へ・シャンユ)は、物質形態の変化や知覚、味覚などを主な題材として取り上げる新しい世代のアーチストで、映画制作などにも関わっています。2014 年にはロンドンで個展を成功させ、2016 年には東京でも個展を開催。また「Future Generation Art Prize 2014」ではファイナリストに選ばれました。個展としては「Juxtapoz x Superflat」(バンクーバー美術館、2016年)、「Chinese Whispers」、(ベルン美術館、2016年)などがあり、グループ展にも積極的な意欲を見せています。

参照元:Future Generation Art Prize公式HP:https://futuregenerationartprize.org/en/history/2014

また、1990年代から日本に移住した王伝峰(おうでんほう)は、中国や海外の有名博物館に何度も展示される作品を発表し、2004年には東京国立博物館で個展を開催。約100年の歴史を持つ同館で、初の存命芸術家による個展となりました。日中文化交流にも尽力しており、日本や中国の芸術家と盛んに交流。さまざまな交流活動で成果を収めていることで、中日友好協会から「中日友好使者」の称号を授与されています。

この他にも、絵画や彫刻、書家といった一般的な美術分野だけでなく、映像やコンピューター・グラフィックス、写真、ポップカルチャーなど新しい分野でも世界で活躍する中国人が増えており、中国美術の裾野はどんどん広がっています。今後も新しい感覚を持ったアーチストが輩出されるとともに、世界的に中国美術への関心も高まっていくことでしょう。

ページの先頭へ