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唐の時代に独自の楷書を作り、「唐の四大家」と呼ばれた欧陽詢(おうようじゅん)。その影響力は、およそ1400年たった現在でも根強く残っています。それは中国のみならず、日本でも同様です。欧陽詢とはいったいどんな人物だったのか。「楷書の極測」とまで呼ばれる『九成宮醴泉銘』はどのように誕生したのか。生い立ちや業績、作品の作られた背景などを分かりやすく紹介します。
中国・唐の時代に楷書が確立され、書体が完成しました。その立役者の一人が「欧陽詢」です。
欧陽詢は虞成南・褚遂良・顔真卿とともに「唐の四大家」と呼ばれる書家で、代表作の『九成宮醴泉銘』は昭和の日本で中学の教科書の手本として取り入れられ、後世にも影響を残しています。
欧陽詢は湖南省にある高官の家に生まれましたが、父が処刑されたことで苦しい生活を強いられました。しかし、優れた文才や聡明な人柄を認められ、唐の皇帝・李世民(太宗)から熱い信頼を受け、太子率更令(太子の教育係)として唐朝に仕えることになったのです。
また、学者・教育者としても多大な功績があり、「弘文館学士」(貴族の師弟に対する学校の教授)を虞成南とともに任され、後進の育成に尽力しました。
85歳で亡くなるまで作品を書き続けた、人並み外れた活力を持った書家であったといえます。
欧陽詢が76歳のときに書いた楷書。太宗が避暑のために九成宮で過ごしていたところ、片隅から甘酒のような味がする水が湧き出たのです。水源に乏しいはずの九成宮から水が湧いたことを太宗は吉兆であると考え、その様子を欧陽詢が碑文に記しました。文字の震えは無く端正でありながらも力強く書かれた美しい作品で、中国や日本で高い評価を受けています。そのため「楷書の極測」とも呼ばれ、書道の手本にされることが多いのです。
欧陽詢が81歳のときの作品。太宗は自分の墓地である昭陵を九嵕山(きゅうそうさん)に築き、その周囲に諸王公主、臣下を葬ることを許しました。その際、最も早く葬られた温彦博に当てて書かれた碑文です。晩年の作品として知られていますが、現在では碑文の下部はほとんど消失しており、上部の文字も1行あたり20文字程度しか判読できない状態です。
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