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褚遂良(ちょ すいりょう)

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中国唐初の初書でありながら政治家、銭塘の人としての顔も持っています。広く学問に通じており、王羲之(おうぎし)の筆跡鑑定や収集処理をしていました。褚遂良は欧陽詢と虞世南とともに、王羲之の書体を受け継ぐ美しい楷書を、高度に完成。欧陽詢の書風の特徴を吸収しながら、独自の書風を確立し、特に晩年の「雁塔聖教序」は、楷書において最高傑作といわれています。魏徴の推薦で、太宗(皇帝)の書道顧問として出仕、太宗からの信頼を得て中書令となりました。太宗からは、自分の死後の後処理を任されるほど重宝されており、後に尚書右僕射まで昇進。今でも多くの人に、学ばれ続けている楷書を確立した、初唐三大家の一人、褚遂良の生い立ちや作品を紹介します。

初唐の三大家の一人 褚遂良の特徴

褚亮の子として生まれ、本貫は杭州銭塘県。父の褚亮は秦王府十八学士(18人の文学館学士)の一人。父の褚亮と一緒に唐へ渡り、秦王府(太宗即位前の幕府)の鎧曹参軍(武器の管理役)になりました。

魏徴の推薦で、太宗(皇帝)の書道顧問になり、稟議大夫から黄門侍門に進んで太宗の信頼を高めていき、皇太子となって李治の博役を担い、最終的に尚書右僕射になります。しかし、高宗が武照を皇后にしようとしたのに反対したことで怒りに触れ、愛州(現在のベトナム中部)に左遷されて、生涯を終えます。褚遂良の書は、変化の多様と情趣の豊富な点では、初唐の三大家の中でもとくに優れています。

代表作

  • 伊闕仏龕碑(いげつぶつがんひ)
  • 貞観15年(642)、褚遂良45歳の時の楷書です。伊闕とは、洛陽の南方にある龍門のことで、その石窟の賓陽洞に南外壁に、刻まれた摩崖碑です。太宗の第4子の魏王泰が、実母の長孫皇后への冥福を祈って、石窟を造営したことを記したもの。褚遂良の書碑の中では、最も大きいものです。

  • 孟法師碑(もうほうしひ)
  • 建碑は貞観16年(642年)で、褚遂良が47歳の時の書です。碑は孟法師が生涯管理した、至徳観という女道士の寺院に健碑されています。しかし、原石は東隣の国子藍に移され、いつの間にか失われたそうです。碑文によると、孟法師は江夏安陸の人で、俗名を孟静素といった女道士です。隋に招かれ、その力にすがろうとする人が多かったといわれています。褚遂良のこの書には、欧陽詢、虞世南を合わせて、新しい分野を開拓しようとする努力がみられます。

  • 雁塔聖教序(がんとうしょうぎょうじょ)
  • 建碑は永徽4年(653年)。玄奘が貞観19(645年)に帰朝して、インドから持ち帰った仏教の翻訳を進めていました。その功績に対し、太宗が「聖教序」(序)の文を作り、高宗(皇太子)も「述聖記」(記)を作文しています。碑文はこの「序」と「記」で2碑に分かれていて、両碑を総じて「雁塔聖教序」とよばれています。大慈恩寺内の、大雁塔に現存しており、保存状態は良好です。

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