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鍾繇(しょうよう)

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鍾繇(しょうよう)は、中国後漢の末期から、三国時代の魏において活躍した書家です。書家であったと同時に、政治家・武将としても活躍したとされており、かの有名な曹操(そうそう)や曹丕(そうひ)に使え、魏の建国にも力を尽くしたことで宰相にまでなった人物です。「魏書」や「三国志」にもその名前が登場することで知られています。

「魏の書家」鍾繇の特徴

鍾繇は、隷書と行書、楷書の三体に秀でていたと伝えられている書家です。現代ではその中でも楷書が特に有名ではありますが、鍾繇が活躍していた時代にはまだ楷書という言葉はありませんでした。そのため、のちの書家により、楷書に当てはめられたものとなっています。非常に高い評価を受けている書家であり、梁の武帝が彼を評価する言葉のなかに、「王献之が王羲之に及ばないのは、王羲之が鍾繇に及ばないようなものだ」というものがあります。

鍾繇が得意としていた楷書は、「鍾繇体(しょうようたい)」と呼ばれるものであり、隷書と楷書の中間のような書体です。この鍾繇体は、これまでに多くの書家が学んできたものであり、現代でも非常に多くの人が手本として学んでいることでも知られています。

代表作

  • 薦季直表(せんきちょくひょう):黄初2年(221年)
  • 鍾繇の代表作として知られている作品。これは鍾繇が皇帝に書いた上奏文となっており、19行あり行ごとに10〜12字で構成されているものです。末の行に「黄初2年」の署名があることから、鍾繇が71歳の頃の作品と言われています。

    北宋末頃から本人が書いたとされる真跡本が知られるようになり、真賞斎帖に刻入されることで有名になりました。真賞斎帖のほかにも三希堂法帖にも刻入されています。

  • 宣示表(せんじひょう): 黄初2年(221年)頃
  • 魏の曹操に対し、呉の孫権が和親を求めた際に、鍾繇が孫権の真意を弁じて曹操に上書したものとされています。現在知られている宣示表は王羲之による臨書であるともいわれており、これが原本として淳化閣帖や東書堂帖、宝賢堂帖などに刻されています。このため、鍾繇のものと現在のものは、大きな隔たりがある、と考えられています。

  • 急就章(きゅうしゅうしょう):不明
  • 前漢の史游が編纂を手がけた字書(漢字を分類した辞典)で、鍾繇・皇象・索靖の手本があったといわれているものです。漢代から南北朝時代まで、元々は子供に文字を覚えさせるために広く用いられていたといわれています。

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