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清代の歴史と美術・文化を紹介しています。
モンゴルによって金が滅ぼされた後、女真族は再び故郷である中国東北部に戻ります。
彼らは建州女真、海西女真、野人女真といった各部族に別れ、争いながら生活していました。これを統一しようとしたのが、建州女真の首長の出身、アイシンギョロ(愛新覚羅)・ヌルハチです。
ヌルハチは、祖父と父が明軍に殺されたのをきっかけに、「明に対抗できる強い女真族」を掲げ、まず建州女真を統一。さらにほかの女真部族も支配下に置きます。
一方の明では、万暦帝の治世の末、魏忠賢という「宦官(去勢を施された官吏)が政治の実権を握り、それに反対する科挙官僚の集団である東林派との間で激しい政争が繰り広げられていました。
その間、女真を統一したヌルハチが、1616年に後金(アイシン)を建国、明からの独立を宣言します。
1625年、ヌルハチは瀋陽を都とし、明へと攻め込みますが、明の将軍・袁崇煥に敗退・退却。この戦の傷がもとでヌルハチは亡くなり、その後は息子のホンタイジ(太宗)が継ぎました。
ホンタイジは国号を「清」と改名。同時に、「女真」という呼称もやめ、「満州」に統一させます。
いよいよ明へ侵攻という矢先、なんと明が滅亡してしまいます。原因は「李自成の反乱」でした。明では軍備を整えるために重税を課す政府に対して民衆が反発。各地で農民蜂起が起こります。
李自成は農民反乱軍の指導者で、各地を転戦。ついに西安、北京に進軍し、最後の皇帝・毅宗(崇禎帝)を自死に追い込みます。
李自成は国号を大順として王を称しまずが、軍の統制がとれず、各地の地主層も離反したため、清に降りた武将・呉三桂に敗れます。この反乱によって明は滅亡、清の中国支配のきっかけとなったのです。
清の文化を語るうえで欠かせないのは、ヨーロッパの中国文明に対する興味から起こった中国趣味「シノワズリ」です。
明朝末期から清朝にかけての時期、中国ではキリスト教の布教が認められ、多くの宣教師が布教にやってきますが、1723年に布教を禁止。
しかし宣教師たちが孔子などの古来の中国思想をはじめ、質の高い文化伝統をヨーロッパに伝えたことで、フランスを中心に中国への関心が高まります。やがて人々は宣教師を通じてではなく、直接中国文化を学ぼうとします。
これが「シノワズリ(シナ趣味、あるいはシナ学)」の始まりです。シノワズリがもてはやされると同時に、景徳鎮の陶磁器などの美術作品が珍重され、ヨーロッパの君主や上級階級に愛好されるようになります。
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