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王義之についてを説明していきます。
王義之(おうぎし)は東晋時代に活躍した書家です。中国はもちろん、日本でも現代にいたるまでにさまざまな書家に多大な影響を与え、「書聖」と呼ばれました。書聖とは書道の達人のこと。書道をたしなむ人はもちろん、そうでない人も「聞いたことがある」というくらい、有名な画家ではないでしょうか。
幼少期から書道に精通していた王義之は、東晋の建国に大きく寄与した王敦や王導らに見守られながら成長しました。もともと東晋の貴族で官吏をしていましたが、中央政治になじめず首都の建康を離れて地方官になります。
若いころから才能を認められた王義之は、最初は宮中の図書をつかさどる秘書郎になります。その後は右軍将軍、地方長官にあたる会稽内史などの官僚職を歴任。しかし、以前から犬猿の仲であった王述が上司になったことから辞職を決意しました。退任後は悠々自適な生活を送ったといわれています。
王義之が「書聖」と呼ばれるようになったのは、書の世界で楷書・草書・行書などが生まれた時代に新しい書の表現方法を生み出したからです。王義之の書はたくさんの書家に影響を与えただけではなく、唐の第二皇帝である太宗皇帝も虜にするほどでした。王義之の残した書に対する太宗皇帝の愛情や執着心はすさまじく、自分の墓に副葬させるほどだったそうです。王からも愛されるほどの書の腕前だった王義之は民衆からも愛され、やがて書聖として崇められるようになっていきました。
王義之は後漢時代の張芝の草書、後漢末期から三国時代・魏に活躍した鍾繇の楷書を学び、楷書・行書・草書に新しい書風を創出しました。
王義之の書は、残されている作品のほとんどが「草書体」であるのが特徴のひとつです。また、大半の行書や草書の内容は主に尺牘(手紙)で、私的な内容が少なくありません。
その理由には、「草書の横画は右に上がっている、点画がくずされ省略されている」ことがあげられます。隷書体は「横画は水平に書くべきもの」でしたが、草書体の登場によって、人は自由に速く書くことができるようになったといえます。
王羲之はこの草書体を整え、さらに手紙で私的な心情や思いなどを綴ることで、時の為政者、権力者をはじめ、時代を超えて多くの人をひきつけたのです。
353年(永和9年)に蘭亭に開かれた曲水の宴にて作られた、詩集の序文の草稿です。これを書いた当時の王義之は酔っていたといわれています。のちに何度も清書をしようとしたものの、草稿以上の出来栄えにならなかったとのことです。
王義之の手紙の断片を集めたもの。書簡の最初の行に「喪乱」の文字があったためこのように呼ばれています。複製されたものではありますが、肉筆と見間違えるほど立派な書です。
王義之の手紙29通を集めたもので、大半が蜀郡の太守、周撫への手紙です。始めの行に「十七日」とあることからこのように呼ばれています。
王義之の名品の一つ。2行15字の手紙の断片ですが、文意は不明です。王義之独特の草書の書風が感じられないため、若いころに書いたものではないかと考えらえています。
相手の安否を気遣う手紙で、7行、50文字からなる草書です。謝尚(しゃしょう)への見舞状ともいわれています。都下帖(とかじょう)と併せて14行の模本が存在。日本では両方を秋月帖といい、中国では「七月都下帖」と称すことが多いそうです。
王義之は「蘭亭序(蘭亭での雅宴で詠まれた詩をまとめた詩集に、王義之が書いた序文)」「喪乱帖(王羲之の尺牘を5通ほど集めて1巻としたもの。最初の尺牘の第1行に「喪乱」という文字があり、この名がつけられた)」「楽毅論(燕の武将である楽毅の人物を論じた文章)」をはじめ、多くの名作を生み出しました。
しかし、残念ながら真蹟は一切残っていません。現在、見ることができるのは、王義之の書を学んだ者たちが書き写した「臨本」や、原本に紙を乗せ字形をなぞった「摸本」のみです。
王義之は、その書を崇拝した唐の太宗皇帝といった中国の人たちはもちろん、日本でも手本にされています。たとえば聖武天皇の皇后・光明皇后が「楽穀論」を学び、唐招提寺の額の文字が王羲之の書であるなど、王義之は日本の文化に影響を与えています。
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