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孫文(そんぶん)

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農家の息子から医師になり、革命家、政治指導者、ついには中華民国を建国し国父と呼ばれるようになった、孫文。犬養毅や頭山満、梅谷庄吉など日本の政治家や実業家ともパイプを持っていた彼は、日本でもなじみの深い偉人の一人です。書家としてはさほど有名ではありませんが、思想による「博愛」や「天下為公」「大道之行」「和平界世」は孫文の書として今日まで伝えられています。そんな孫文はどのような人物だったのか、どのような生涯を歩んだのか、詳しく紹介していきます。

医師から中華民国の国父へ~波乱の生涯

中華民国の建国の父として名高い孫文は、政治指導者として有名ですが、元々は清国広東省香山県翠亨村(現中山市)の農家に生まれ、9歳で父を失い、その後、オアフ島ホノルルに移住して現地のイオラニ・スクールを卒業、さらに香港に渡って香港西医学書院で医学を学び、マカオで医師になりました。

1894年1月、打倒清朝を目指してハワイで興中会を結成、広州で武装蜂起を企てますが、密告され、日本へ亡命します。1870年にはアメリカ国籍を取得し、同国やヨーロッパなど世界中を巡って革命資金を集めて回り、時節到来を待ちました。

1911年10月10日、武昌蜂起(武昌起義)の発生をきっかけに辛亥革命が起き、翌1912年1月1日、革命指導者として求心力のあった孫文が臨時大総統に就任し、中華民国が成立します。しかしその後、孫文は強権政治を武器に台頭した袁世凱に実権を奪われ、再び日本へ亡命。

日本の実業家・梅谷庄吉の支援を受けながら袁世凱打倒と復権を目指しましたが、1925年にガンに侵され北京で病死します。享年59歳。後に有名になる「革命尚未成功、同志仍須努力 (革命なお未だ成功せず、同志よって須く努力すべし)」の遺言を残しました。

書家としての孫文の足跡

中華民国の国父として政治家のイメージが強い孫文ですが、実は書家としての足跡も残しています。ゆかりのある日本で「天下為公」「大道之行」(行書五言聯)を書し、親しい政治家や緑の人達に送っているほか、大正2年に来日した際には、私立明治専門学校と安川敬一郎邸を訪れ、「和平界世」の書を安川に贈っています。さらに、孫文直筆の書「博愛」が熊本県荒尾市に寄贈されたこともニュースになりました。

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